わたせせいぞうのハートカクテルを全巻買った

わたせせいぞう『ハートカクテル』

親の世代の漫画だ。こういう絵柄は昔からどこかしらで見たことがあるが、今までわざわざ手にとって読もうとは思わなかった。絵柄も古臭いし、大した盛り上がりもないし、登場人物のファッションもトレンディを感じさせるし、キザなセリフもダサい。こんな漫画はたぶん今までの自分なら絶対読む気にならなかったが、いろんなところでパロディされるのを見るうちに気になって、なぜか急に全巻セットで買って今読んでいる。

わたせせいぞうの「この感じ」はあまりに確立しているので、「昔の漫画はこういうジャンルがあるのか」ぐらいに思っていたが、どうやらこういう画風、作風の漫画家は、後にも先にもわたせせいぞうただ一人だけのようだった。一人でジャンルを確立しているのだ。

1ページ目から1枚のイラストレーションとして成立している構図のデザイン、平面的なのにみずみずしさを感じる光の表現、すべて手書きのキザな、どこか茶目っ気を感じさせる台詞まわし、小説の短編集のような不思議な読後感。もちろん時代性が強くて古いは古いんだけど、その時代性が好きになる。1話4ページのオムニバス形式で、決まった主人公もおらず、連載時の季節に合わせて話が展開される。

こういう良さというものがある。新しい良さを知るのは楽しい。ネットで見られる面白いものはどうしても同時代性の強いものばかりなので、出版されたもののように違う時代の良いものに出会う機会は少ない。この数年で趣味や面白いと思うものも少しずつ変わってきたのかもしれない。

人生の難易度を下げる攻略法

25年ほど生きてみたところ、悩みとその結果としてのつらみ(人生の難易度)は足し算ではなくかけ算の関係にあるんじゃないかということが薄々わかってきた。

何を言っているかわからないと思うのでもう少し整理すると、生きていると悩みが自然発生する。
顔が不細工だ、家が貧乏だ、みたいなわりと恒常的な類の悩みもあるし、3日後がテストだ、うんこが漏れそうだ(または漏らした)、職がない、みたいな突発的・期間的な悩みもある。あとは歯を磨くのがだるい、着る服を選ぶのがめんどくさい、爪を切るのが煩わしい、といった定期的に発生するものもある。

そうした悩みを即座に無にするのは悟りを開かない限り不可能なので、いきおい、大抵の人間は常に複数の悩みを抱えて生きることになる。それらの悩みがどれだけ精神を圧迫しているか、その負荷のステータスがつらみである。つらいと何をするにしても難易度が上がる。

そして、悩みにはそれぞれ違った重さがある。「爪が伸びてきたけど切るのがだるい」が2とすれば、「明日のプレゼンの準備が全然出来てない」とかは20、といったように。

では、「爪が伸びてきたけど切るのがだるい」と「明日のプレゼンの準備が全然出来てない」を同時に抱えた場合、その結果としてのつらみはどうなるか。
2 + 20で22だと思われるだろうが、経験的に実はそうではなく、2 × 20 で40ぐらいになるというのがより実感に近いのではないだろうか。人間はワーキングメモリが貧弱なので、同時に複数の悩みを扱う(マルチタスク)というのがとても苦手なのだと思う。いろんな問題が重なってウォァーーーッとなってパンクしそうになっているときでも、一個一個紙に書き出して考えてみると意外とそれぞれはたいしたことなかったということがよくあるが、あれはそういう理由で発生しているのだと思う。

そこから導き出される人生のプレイスタイルは何かというと、「悩みはまず数を減らしにかかった方がいい」ということだ。
爪を切るのがだるい(2)とか服を選ぶのがめんどくさい(4)とかいったしょうもない悩みでも、他の大きめの悩みと束になって掛かってくることで負のシナジーが発生し、つらみは級数的に上がって行く。それを未然に防ぐために、爪を切ることで弱めの悩みを即座に潰した後で、強めの悩みであるプレゼンの準備に取りかかる。風来のシレンでも、複数のモンスターを相手にする際はタコ殴りにされないよう、通路に引き寄せて1匹1匹倒すのが鉄則である。

つまり、自分の力で対処可能な小さめの悩みはさっさとつぶした方が全体効率がはるかに良い。そしてさらに良いのは、そもそもそうした予測可能な悩みが発生しない仕組みを作ることだと思う。

僕の場合は、毎日着る服に悩むのをやめるために、同じシャツを何着もまとめ買いしている。悩みは選択肢から発生するので、平日はこれしか着ないと決めてしまえば余計な悩みは発生しない。食事も何を食べるか考えるのをやめるために、会社で米を炊き、冷蔵庫には「納豆・豆腐・卵・キャベツ」という僕の構築した最強デッキを常備している。デフォルトの選択肢を固定してしまえば悩みは発生しなくなる。

これをやることで、人生の難易度が1、2段階ほど下がっているという感覚がある。
なにかのきっかけで大きめの悩みが爆誕しても、日頃から抱える悩みの数が少ない(手が空いてる)のでつらみはそこまで大きくならず、すぐにはいっぱいいっぱいにならず落ち着いて解決に取り組める。同じ問題が発生しても精神の動揺が少なめになる。

何を着るか、何を食べるか、何を買うか、どこに行くか、どうやって行くか。生活は無数の選択肢の連続で、豊かさは選択肢の数として現れるけれど、選択肢が増えることによって悩みもまた増えている。選択肢を減らして何に悩むかを絞り込むことで、問題にフォーカスする攻略法が必要なんじゃないかと思う。

目下、爪が伸びない方法を考えているところである。

理屈ではわかるけど納得いかないこと

説明されて頭ではなんとなくわかるけど感覚的に納得いかないというか、んん〜?? ほんとか〜? と思っちゃうことがある。

中学生ぐらいのとき理科の授業で「人間の身体には常に大気圧といって100kg以上の力が掛かっている」みたいなことを習ったが、「ほんとか〜?」と思った。ほんとにそんな力に常に耐えているんだったら今ごろ全員ムキムキなはずだし、10kgや20kg程度のものを運ぶのにヒーヒー言うわけがない。正直、25歳になった今もあんまり納得いってない。大人なので大気圧のことは知っていることにしているが、心のどこかでは「ほんとか〜?」と思ってる。

あとあれだ、人が入ってるサウナが90度以上みたいなのもよくわからない。90度のお湯だったら茹だって死んでしまう。何に対してなのかわからないが「ほんとか〜?」となる。その後に入るキンキンの水風呂が20度ぐらいだったりしてこれもまた「ほんとか〜?」となる。

ただ、これについては最近放射温度計という赤外線やら何やらで表面温度がすぐに分かる機械を買って、いろんなものの表面温度を測って触っているうちに「触ったときの熱さ冷たさと、温度の高い低いは別の概念」ということが少し分かってきた。つまりやや納得しつつある。

写真で魂抜かれるとか、電話で風邪がうつるとか思ってた人も、光の屈折や音の波のことを聞かされて頭で納得いってもやはり「ほんとか〜?」と思ってたんじゃないだろうか。

これから30年か50年かすれば3Dプリンタが進化してどこでもドアみたいな物質転移装置になるかもしれない。そうすると機械の中に入った自分が分子レベルまでビビビと分解されて、駅とかコンビニみたいなところでビビビと再構築されて出てくるんだろうけど、本当にそれが自分自身と言えるのかわからない。わからないけどたぶん便利だから使うんだろう。そして「ほんとか〜?」と思いながら分解されていくんだろう。

「読んでいない本について堂々と語る方法」を読んだので語る

本当に読みました。
これすごい。本のタイトルとその中身の乖離にがっかりすることは多いけど、感動できることはなかなかない。読書術やハウツー本だと思って読み始めるとたぶん後悔する。

序盤の語り口は軽妙で、「読んでない本について語らないといけないことって意外とあるよね、特に俺みたいな文学部の教授だとネ☆ でも大丈夫、みんな秘密にしてるけどある本を語るのにその本を読む必要なんてないし、むしろ読まない方が良いくらいだぜ!」みたいなノリで、文中で引用される本についても脚注で「流し読みした程度」とか「読んだけど忘れた」とか書いてあるので「いや読んでねぇのかよ!」などとケラケラ笑いながら読むことができる。「ピエール」という冗談みたいな名前と相俟って(ピエールという名前を聞くと8割の日本人の頭にはシルクハットに丸メガネで口ひげの先っちょがクルクルーッとなってる似非紳士が現れるだろう。語尾はザマスかザンスだが、ザンスが浮かぶ場合は出っ歯であり、その人はイヤミと混同している可能性が高い。残りの2割は電気グルーヴの片方が浮かぶ)そういうふうに冗談や屁理屈の類だと思って読んでるうちにだんだんと話の説得力が増してきて「こいつひょっとして、マジで言ってるのか……?」という気になり、中盤辺りからは完全に「我々は全ての本を読む事ができない。それどころか読んだ本の内容はおぼろげな記憶に過ぎず、それも時とともに薄れやがて消えていく。『本を読んだ』とは一体何だったのか……?」という空恐ろしい気分に満ちていく。今までの自分が積み上げてきた常識が足元からガタガタと崩れていく、世にも奇妙な物語的な読書体験だった。

そもそも本というのは「読んだ」「読んでない」の2値で分けられるような類のものではないザマス、とピエールは言う。そもそも読んだ本の内容を一言一句覚えている奴など稀だし、また別の人が同じ本を最初から最後まで読み通したとしても読んだ人の頭の中に浮かぶイメージは一意ではないし、どの部分に重要な点を見出すかも人によって違う。

われわれがすでに読んだ本と考えているものは、たとえそれが物質的にはわれわれが手に取った本と同じであるとしても、われわれの想像界によって改変された、他人の本とは関係のない、雑多なテクスト断片の集合に過ぎない。

そして、本について語るときに必要なのは本の中身の記憶ではなく、本と本を繋いでそれらを位置付けるメタ情報であるという。「本という確固たるテクストがあって、それを完読して頭に叩き込むことで初めて、それを元にした議論や批評ができる」という学校教育で暗黙の前提とされてきた認識が間違っているのだと言い、「本を読んだ」ことに神聖な価値を与えてしまうことを拒否する。むしろ自分の頭で考える上で本を読むことは悪影響だとさえ言い切り、果てには引用する本の内容が実際と間違っていてもそれがどうした何も問題ないとまで言い始める。
そんな「いくらなんでもそりゃ言い過ぎじゃねぇの」と言いたくなるロジックを、古今東西の豊富な(流し読みした)エピソードや文献を援用しながら説得力のあるものにしていく。この過程そのものが、著者の唱える理論を実践しているのだ。

また、ここでいう「本」はさらにいえば本じゃなくても良い。映画でも、音楽でも、ウェブページでも、学問のジャンルでもいいし、誰か一人の人でも、何か物事に対する考え方でもいい。そう考えてみると、誰か一人の人間を知り尽くすことなんて不可能だし、それでも「あの人はこういう人だ」と(実際には本人と話したことさえなくても)語ることができる。それはわりと無責任な行為で会ったこともない人についてどうのこうのいう人はあまり信用できないが、ではその人について俺は全て知り尽くしてるしバッチリ語ることが出来るぜなどということはあり得るのだろうか。同じように読み終えた本についてどうのこうの言うことがそんなに確固とした責任の持てるものなのかというとそんなことはない。理由は前述のように読まれた本とはそもそも一意ではないからだ。では実際には何を語っているのかというと、ピエールによると自分を語っているのだという。過去の本によって張り巡らされた網の糸を時に手繰り寄せ、時に強引に結びつけ、その中に自分を位置付ける、そういうあやふやで不確かな試みこそが何かを語るということであり、そのようにしか語り得ないのだ。だから、語ることはひとつのクリエイションであるという。

自分は本を読むのは好きなんだけどこういうふうに本について何かを言うのが苦手で、「ちゃんとしたこと書かなきゃ」と思ってしまうと、無意識のうちに正解を想定してしまい、不正解を出さないように慎重になってしまうふしがある。(本読んだ後にその本の他の人のレビュー読んだりすることないですか? 僕だけですか?)
でも、同じ本を読んで同じ感想が出てくるなんてことはあり得ないという考えてみれば当たり前のことがわかったので、今後は適当に書いてみようと思う。引用した部分以外、書いてるときに読み返してない。たぶん語尾にザマスはついてなかった。

ローマ人の物語をワンピースみたいに読む

ローマ人の物語(1)を読む。続き物つってもせいぜいが10巻や20巻だろうと高を括って読み始めたが調べてみると43巻あった。

歴史の勉強がめっぽう苦手だった。なぜなら人の名前や場所を覚えるのがとても苦手だからだ。世界史の授業は話が面白いので好きだったがそれと登場人物を覚えているかというのは別の問題だ。純粋に記憶力の問題なのでどうしようもない。顔を覚える能力も人より低いので映画なんかを見てても登場人物として識別できる許容範囲は各人種男女1名ずつだ。肌の色と性別と髪型で覚えているので途中で髪型を変えられるとふざけるなと言いたくなる。名札を付けて出てくるか、喋るときに毎回名を名乗るようにしてほしい。

そんな自分がなんとかウスだのなんとかテレスだの似たような名前の人間がぞろぞろ出てくる、しかも43巻ある歴史物を読み始めるとは一体何を考えているのか、2巻を読む頃には1巻の顔ぶれなんて消し飛んでるから読むだけ無駄だろと言われても仕方ないが、そんなもんこっちから言わせてもらえば正直43巻もあるともう覚えようという気すら起きない。そして試験があるわけでもないので別に覚えなくてもいいのだ。素晴らしい。だいたい話が100年も進めば全員死んでいるので、後々になって「まさかあの男が!」みたいなことがない。とても助かる。

そんなわけでだいたい夏休みに友達の家に遊びに行ったときにとりあえずワンピースを読むのと同じノリで読み始めたけど1巻から泣ける。ワンピースみたいに泣ける。超ヤバくて泣ける。
どの辺が泣けるかというと1巻からこれローマ関係ないスピンオフストーリーなんだけど、生まれも育ちも全然違って日頃は対立しまくってるアテネとスパルタっていうギリシャの都市国家があって、これがペルシアの侵攻っていうギリシャ全体の危機に際して一致団結して立ち向かう回。この回が超アツくて、スパルタっていうのもどっちかというとダークヒーロー寄りな感じで生まれた子供が戦士タイプじゃなかったら崖から捨てる!みたいな力こそ正義的なノリで戦士と農奴しかいねぇみたいな国なんだけどそこにはそこなりの質実剛健な美学みたいなのもあって。一方ペルシアは今の所超悪い国、でかくて超悪い国として描かれてて、それに対して映画のジャイアンみたいなベタさであのアテネとついに協力して立ち向かうっていう。仲間?とか絆?の大切さ?みたいなの?この命にかけても?信念?守る?みたいな?そういうの超いいなって思いました。

小学4年生の中でも結構ダメな子ぐらいの感想文しか出てこないんだけどこんな調子で読んでいきたい。カルピスとか飲みながら。ポテチ片手に。ローマ行きてぇ〜。

文字で自然に笑えない僕らは(愛想笑いの再発明)

自分が笑っていることを相手に伝えるために、どんな記号を使うだろうか。「笑」とか「(笑)」とか、「w」(あるいは笑い具合に応じて「www」)とか、YouTubeで見る外国人のコメントでは「lol」とか「jajajaja」みたいな記号が使われる。
僕は個人的な好みから、こうしてブログを書いたりツイートしたりする際にはそうした記号を使わないが、人にテキストメッセージを送る際にはよく語尾に「笑」をつけたりして使う。(正確には文が終わった後の句点(。)の後に「笑」をつける)。それをつけないと、相手に「怒ってる?」と思われたり敵意があると思われるような気がするからだ。
そんな風に誰かにテキストでメッセージを送る時に、画面の前で真顔で語尾に「笑」をつけながら(「笑」とか「w」とか打ちながら本当に笑ってる人はそんなにいないと思う)、なんとなく違和感というか、収まりの悪さを感じることはないだろうか。
日本では言文一致で書き言葉と話し言葉がだいたい同じように表されるようになって久しいが、いまだに人は文字でうまく「笑う」ことができないように思う。

一対一の文字によるコミュニケーションが生まれて数十世紀、人間は未だに人間の笑いというコミュニケーション手法をトレースすることができるに至っていない。

笑いは出来るだけ齟齬のないコミュニケーションを行うために使われる。その中でも愛想笑いは重要だ。便宜上、別に面白いことがない時に人が見せる笑顔を愛想笑いとする。笑いは面白いと思ったときにそれを伝えるためだけの手段ではない。別に面白いことがなくても、例えば相手に敵意がないことを伝えるために人は笑うことができる。

また愛想笑いは「特に用がない」ことを最大限敵意なく相手に伝えるための手段ではないだろうか。パーティーで知り合いが自分に話しかけてくる。彼あるいは彼女が愛想笑いをしているか真顔であるかによって受ける印象は大きく異なる。真顔な時は何か用事があるとき(たとえばトイレの場所を知りたいとか、相談したい切迫した悩みがあるとか)で、愛想笑いの時は特に用がないことが多いので適当にあてどない会話をしてもいい。そして適当なところで会話を切り上げたい時にも、最大限角が立たずにそれを伝える方法として人は愛想笑いをする。

テキストでのコミュニケーションにおいては、未だに人類は「会話を切り上げるための愛想笑い」と同等のものをさえ、持ち合わせていない。

文字に比べて人間同士の生の会話では、声の調子や表情を駆使して圧倒的に短時間で繊細なニュアンスを伝えることができる。手紙がメールになり、掲示板になり、ブログのコメント欄になり、ツイートになり、チャットになり、文字によるコミュニケーションの粒度が小さくなっていけばいくほど、「笑わない」ことのリスクは大きくなるように思う。できるだけそれに近いものを求めて、人はチャットの最後に「笑」みたいな記号を使ったり、絵文字を使ったり、LINEのスタンプを使ったり、「いいね」を使ったりする。そうして愛想笑いを再発明し続けながら人のコミュニケーションは洗練されていくのか、退化していくのか。

なんか変に話が大きくなったうえにまとまりないけどテキストで会話切り上げるのむずくね?って話でした。笑

縮小現実について

ここ数年ずっと縮小現実の可能性についてぼんやり考えている。

脳のニューロンの役割は人間の外部内部から入ってきた情報を隣のニューロンに伝えるだけではない。その情報の大半を削除し、必要なものだけをパルスに変換して伝えている。つまり「見逃す」こと、情報を削減することが仕事でもある。精神疾患の症状でもあるが、自分の周りの会話や視覚情報などあらゆる情報に対して精神が平等に鋭敏に反応した場合、人間は自我を保つことが困難になる。脳の自衛システムとして情報をフィルタリングして重要なものだけを残す機能が人間には備わっている。

ところが、人間が一度に処理できる情報の量はほとんど増えていないのに、人間が曝される情報の量は爆発的に増えている。本や映画と違って、広告は基本的に無料だ。無料というのは「それを求めない人に強引に押しつけることができる」と言う意味ではないはずだが、そのようなことは日常的に行われている。

日常的に大量の情報に曝されるこの状況を情報被曝と名付けたい。
情報被曝は人に苦痛を自覚させないままに進行し、脳のリソースを奪っていく。認知や判断力は有限のリソースだ。情報に注意を奪われている時間だけ自分が自分の人生のために何かを考える時間は減る。自覚しなければ知らず知らずのうちに頭に不必要な広告をねじ込まれたスカスカの人生が出来上がる。
それを避けるための最初のステップとしてWebの、あるいは現実の広告や不要な情報からオプトアウトされる手段があってしかるべきだと思う。縮小現実はそのための技術だ。

iPod touchをiPhoneみたいに使うときオゥフとなる違いと、その乗り越え方

ずっとスマホでネットに繋がってる状態って精神的に健康じゃないし、スマホの回線って契約しなくてもそんな困らないんじゃないか?と思ったので解約して、iPhoneをWi-Fiだけで使っていたが実際そんなに困らなかった。

今はY-mobileの電話とSMSだけ使えるガラケー端末と二台持ちしている。若干の本末転倒感が否めないが、本来の目的はオフラインな時間を作ることなので断じて問題はない。

ただ、数年前のiPhone 5だったのでボタンやバッテリーにガタが来てたのと、仕事で使う写真をいいカメラで撮りたいと思ったので、中古でiPod touch(第6世代)を買った。

iPhoneを買うより格段に安上がりだし、最新のiPod touchの性能はiPhone6に劣らない。しかもどんなiPhoneより薄い。じゃあ回線いらないならiPod touchでいいじゃん!と思って買ったのだが、薄いだけあって微妙にiPhoneにはある機能が無かったりして、そういうのを見つけるたびにオゥフとなる。

これからiPhoneを卒業してiPod touch生活を送ろうとしている君たちのために、iPhoneにあってiPod touchにはない機能をリストアップしておく。この違いを大きいと見るか小さいと見るかは人それぞれだが、個人的にはこれだけの違いで月額無料で(ほぼ)最新のスマホ(のようなもの)が使えるなら安いもんだと思う。

iPod touchはiPhoneより薄く、軽く、美しい

まずその前に声を大にして言いたいのがこれだ。この事実に世界は早く気づくべきだと思う。世の中にはiPod touchのことを「iPhoneみたいなオモチャ」とか「電話にも音楽プレイヤーにもなりきれなかった哀れな存在」のように見る向きもあるが、そんなことはない。「電話でも音楽プレイヤーにも甘んじない、より洗練された純粋なiOS端末」と捉えるべきだろう。

実物を手にとってみればわかるが、どんなiPhoneよりiPod touchの方が薄く軽い。サイズもiPhone SEと同じで個人的にはちょうどいい。そして電話ではないので、余計なパーツ(SIMカード?っていうの?を入れるとこ?)もなく見た目はよりシンプルで美しい。表面なんかはインカメラと画面とホームボタンしかない。左右対称だ。

これを踏まえた上で、以下のiPhoneとiPod touchの違いは「何が足りないか」ではなく「何を削ぎ落としたか」と捉えてほしい。あとあれだ。オシャレは我慢だ。

バイブレーション機能がない

これは購入するまで気づきにくいところだし、僕は購入してからもしばらく気づかなかった。音を出さずにぶるっと震えて通知してくれるバイブレーション機能がない。音を出すか、全くのサイレントかの2択である。

しかし、考えてみればバイブレーションほど余計なものはない。どんな些細な通知でもブルッと震えて存在を知らしめてくる。最高のデザインはそれ自体を存在しないもののように感じさせてくれるという。そう考えるとバイブレーション機能はiPhoneの価値を損ねていたと言わざるを得ないだろう。

Touch IDがない

僕は元々touch IDのないiPhone 5からの移行だったので特に違和感はないが、iPhone 5S以降から乗り換える場合、これには少したじろぐかもしれない。昔ながらのパスコード認証でログインするしかない。

しかし、セキュリティのため本当にに大切なことは何だろうか?それは端末を扱う個人の意識だ。たとえtouch IDに守られていたとしても、ロックを解除したまま放置したりスクリーンショットで個人情報をネットに流したりすれば元も子もない。
iPod touchはロック解除のたびにこの昔ながらのパスコードを入力させることで、セキュリティ意識の大切さを思い出させてくれる。

電池の残量%表示がない

電池アイコンのざっくりした表示しかない。なぜないのかは謎だが、別にiPhoneでも100%だと思って使ってたらいきなり70%になってたり、残り1%でも意外と使えたりと元来頼りにならないので、実際そんなに変わらない。
数字を心配しなくても、iPod touchの電池はやがて必ず切れる。形ある物はいつか滅びる。些細なことにとらわれず今を生きることの大切さを、iPod touchの電池は教えてくれるのではないだろうか。

上のスピーカーがない

これが一番の衝撃だった。LINEで通話しようと耳に当てたら下のスピーカーから音が漏れている。アレ〜?スピーカーフォンに切り替わっちゃったかな?と思ってよく見たらそもそも耳に当てるところに音が出る穴がない。多分普通の人は買う前に気づく。
下のスピーカーから音が漏れて周りに聞こえることが気になるならイヤフォンを刺せばいい。

ちなみにスピーカーは下に、マイクはなぜか上(裏面カメラの隣)についているため、耳にあてる際は逆さまに構えるのが一番合理的ということになる。本を逆さまにして読んでる人みたいでなんとなくバカっぽいが、見た目にとらわれず本質を掴むことの重要性を、iPod touchは教えてくれているのだろう。

GPSがない

これも見た目からはわからないので予想外だった。外を歩いているときは基本迷っている僕には大きな誤算だ。
とはいえ、周囲のWi-Fiの位置からだいたいの場所を推測してくれるというありがたい機能があるので、Wi-Fiをオンにしていればざっくりとした場所は教えてくれる。ただ向いている方角ばかりはわからない。

思えばスマートフォンのマップアプリによって、スマホが無ければ自分が今どこにいてどこに向かっているのかも分からなくなってしまう人が増えたように思うのは僕だけだろうか。(僕は元からそうだ)
周りに流されず、自分の向かうべき方向を自分自身で決めることの大切さをiPod touchは我々に教えてくれているのかもしれない。

外付けのGPSみたいなのも売ってはいるが、微妙に高いので買わない。

明るさが自動で変わらない

iPhoneの場合外の明るさに合わせて画面の明るさを適当に調整してくれるが、iPod touchでは自分で変えないといけない。これは地味な違いだ。実際無くてもそこまで困らない。眩しいなと思ったらコントロールセンターをヒュッと引き出して調節すればいい。

以上です

だいたいこんなもんだ。たいていの不便は精神論でごまかせることがお分かりいただけただろう。

デジタル写真とは最終的には色のついたドットの羅列に過ぎない。想像しうるあらゆるドットの羅列は再現しうる。それにもかかわらず、どうして人は現実世界をドットの羅列に変換するための機材やレンズに何十万もつぎ込んでしまうのか。しかも、多くの場合「イメージ通りのドットの羅列を得るため」という理由で。おそらくそこにはレンズを買うことなしに、自分の時間や努力では超えられないラインを認識するからだろう。イメージ通りの結果を得るためといいながら、人は自分のイメージを超える美しさ、意外性を求めてレンズを買うように思える。人は自分のイメージを完璧に叶えるものを究極に求めるのではない。人はもっと貪欲だ。自分が自分が想像する範疇を超える、つまり求め得ない何かを求める。ある意味ではそれは不確実性で、非再現性だ。かといって完全なランダマイザーでは決してない。自分の想像と基本的には一致していて、一部違う要素を含むものを求める。多くの人が求めるのは、自分が求めていたものではなく、自分が求め得なかったものだ。レヴィナスは「欲求」と「欲望」を、前者は自分が何を欲しているのか知っているもの、後者は自分に何が足りていないのか指すことができない欠落のありかたと分けて定義したらしいけど(読んでない)、現代多くの人が欲しがる物は人の欲望を刺激するものなんじゃないだろうか。

VR技術だったり記憶や体験の再生で考え得る限りの人の欲求が叶えられてしまったときに人はどうするのかという話をしていたけど、そう考えると人間の想像できる程度の欲望が全て叶えられた程度でモチベーションが尽きるというのはありえない。人間が欲望するのは自分自身が欲望できないものだ。たぶん人間はそういう矛盾したエンジンを持っている。

(以上、酔っ払って帰りの電車で書いたメモでした)

引っ越し祝いに大きめのエジプト神像を送りつけてきた奴の会社に入社しました

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退職エントリです。

新卒から2年間働いた株式会社ネクストを退職し、友人の経営する株式会社「4人の株式会社」に入社しました。これに伴い、転職先の社名を「5人の株式会社」に変更します。

株式会社ネクストは物件情報サービスのHOME’Sを運営する会社です。いわゆるビジョン経営の模範のような会社で、社是である利他主義やビジネスの社会的価値を重視し、「グレーなことや悪どいことじゃなくて、真っ当に人様の役に立つことをしてちゃんと稼ごうぜ」というスタンスを大事にしながら結構な勢いで成長している、というIT業界には珍しい(?)会社でした。

一方、ホルス神は古代エジプトにおける天空を司る神であり、オシリスとイシスの子としてラーとともに古代エジプト神話を代表する存在です。古代エジプト文化を象徴するシンボル「ウジャトの目」はこのホルス神の目を表しています。

そのホルス神の大きめの像が今、我が家のリビングに鎮座しています。

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ホルス神が現在どのように僕の生活を支えているかについては「引越し祝いに大きめのエジプト神像を送りつけられたのでラズパイを仕込んで喋れるようにした」という記事をご覧いただくとして、これを送りつけてきた張本人が当時「3人の株式会社」代表の濱中です。
ネクストの同期も含めて僕の友人に手当たり次第連絡を取り、カンパを募って約8万円の神像を購入するという、ゴキブリのような行動力とスピード感が彼の持ち味です。

ネクストは連結で800人ぐらいいる会社だったので、規模的には1/160ぐらいの環境に変わります。新卒として今後に期待を込めて雇ってもらい、多くの人にお世話になったにも関わらず、大きな貢献をする前に退職してしまうのはとても申し訳ない反面、自分のキャリアの最初にこういうある意味ちゃんとした会社で働けたことはとても良かったと思っています。

転職の動機としては、自分たちのアイデアと力で会社を大きくしていく場に立ち会いたいというのと、「良いもん作り続けないと死ぬ」みたいな野生の環境に身を置いて自分のものづくりとしての生存能力を高めたいという気持ちがあります。
ポール・グレアムが「スタートアップの適齢期は25歳」と言っていましたが、僕は来月で25歳になります。恵まれた環境を離れてリスクを取りに行ける可能性は今後年々低くなっていくだろうと思ったのもきっかけの一つです。あとはヴァイブスと直感です。
これだけは言っておきますが決してエジプト神像を送りつけられたから転職を決意したわけではありません。

「5人の株式会社」は、プロフェッショナル仕様の3Dプリントが最速3日で届くサービス「3Dayプリンター」を中心に、作る人を支援するサービスを展開していきます。
僕はWebまわり全般を担当しながら、新しいサービス考えたり作ったり既存のサービスを成長させる施策を考えたり作ったりします。今後3Dayプリンターや他の自社サービスで使いづらさとか不具合があった場合は全部僕のせいです。言ってくれれば出来る限りすぐに直しますのでいつでも教えてください。

最後にHOME’Sで退職直前まで作ってたサービスの紹介を。
通勤電車の快適さから物件探しができる、快適通勤検索(首都圏用)です。基本スマホ向けですがPCでも見れます。

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「引っ越し先を探すとき、通勤時間とか乗り換えの少なさで探すけど、結局引っ越して朝電車乗ってみたらギッチギチに混んでるとかつらいよね、事前に混雑度情報がわかったらどれぐらいストレスあるかわかって便利じゃね?」という僕のアイデアから生まれたものです。僕はロゴとか検索結果ページの制作を担当しました。あと裏技として、ロゴを押すと背景の電車が走ります。

快適度とは言いながらも現状は電車の混雑度情報です。今後は他にもたくさんの情報が追加されてより正確に通勤の快適さをイメージしながら探せるようになるはずです。
とにかく早くローンチして反応を得ることを優先して作ったため、機能的にまだまだ足りてないところがあります。例えば「なんで家賃相場出てるのに家賃相場で並び替えれねぇんだよ」とか。(いろいろあるんです…)
そんな感想、要望、文句、バグ報告などはお問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。皆さんの生の意見がサービスをブラッシュアップするための力になります。

あとは退職エントリ恒例の欲しいものリストはこちらです。
「結構頑張ってるフリーター」ぐらいの給料になるので同情の代わりに何かください。

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