ゴルフ練習場を眺めていると心が落ち着くことがわかった

特に何か具体的な悩みがあるわけではなくても、静かに一人になっていろいろ考えたり考えなかったり、自分と向き合ったりぼーっとする時間は必要だと思う。日常の流れに乗せられて、周りの人の言葉や自分の周りで起こることに反応し続けていると、もやもやとした心の垢のようなものがこびりついて、知らず知らずのうちに身動きが取りにくくなる。自分の意思で何かしているはずなんだけど本当にこれが自分のやりたいことなのかわからず、漠然とした焦りを感じ何となく気持ちが落ち着かなくて、どこかに行きたいけど特に行くところも思いつかない、そんなときがある。

そういうとき、家の近所のゴルフ練習場を眺めていると不思議と心が落ち着くことがわかった。

ゴルフ練習場というのは今までの人生で「知ってるけど別に行こうとは思わない場所」ランキング上位に食い込む場所だが、ゴルフに1ミリも興味が無かったとしても「ゴルフ練習場を眺める」というのは、実は悪くない日曜の夕方の過ごし方だと思う。

ネットに囲まれた芝生の上空に向けて、おじさんたちがそれぞれにゴルフクラブをスイングしている。日曜の夕方、会社や家族の中で暮らしている彼らにとっても、もしかすると一人になれる貴重な時間なのかもしれない。スコッ、という小気味のよい音を立てて小さな白いボールが次々に空中に放たれ、芝生の上に転がる。近くにすぐ落ちる物もあれば、遠くまで飛んでバウンドする物もある。バッティングセンターやゲームセンターのように、仲間と大声で話すような人はいない。誰もがただ静かに、白いゴルフボールに集中している。その様子は日々の修行に向かう僧たちのような、落ち着いた静謐さを感じさせる。ネットの外側から10分ばかりそれをぼーっと眺めていると、不思議となんとなく心の毛羽立ちが収まってくるような気がする。

最近読んだ村上春樹の小説でも、主人公が心を落ち着けるために新宿駅のホームから電車に入ったり出たりする人々をずっと眺めているという描写がある。麒麟の川島は洗濯機が回るのをつまみに酒を飲むらしい。そのような、何かが一定の仕組みで正しく動いている様子は、見る人に落ち着きをもたらすのかもしれない。

そういうことなので、今後は定期的にゴルフ練習場を眺めていきたい。カップ酒と焼鳥の一つもあればなお良いかもしれない。

どうでもいいラーメンの話

ラーメンはいつから「こだわる」ものになったのだろうか。

現在ラーメンは大きく2つに分けられると思う。こだわるものと、どうでもいいものだ。そして一般的にラーメンというと前者を指す場合が多くなった。こだわらずんばラーメンにあらずの趣がある。

小学生の頃、僕にとってのラーメンは「土曜半休のときに帰ったらとりあえず出てくる、『普通』の代表格みたいな昼飯」だったし、ラーメンが土曜日の季語だとすれば枕詞は「とりあえず」だ。そういう意味でそれは愛すべき日常の象徴であった。

それがいつの間にか、ラーメンは外で食べるもの、タオルを頭にバンダナ巻きしたヒゲの大将が腕組みで仁王立ちしているものになってしまった。ラーメンといえばこだわり、こだわりといえばラーメンみたいになっている。

上京して1年半、東京にはいろんなラーメン屋がある。だけどその多くが何かしらのこだわりを打ち出してくる。違う、そうじゃない。行かないでくれ、本物の煮干しのために日本全国を探し回らないでくれ。僕はただ、投げやりな気持ちで食べられるどうでもいいラーメンが食べたいだけなんだ。僕はそんな自分のどうでもいい気持ちに応えてくれるラーメン屋を見つけられずにいた。

そんな折に、理想のどうでもいいラーメン屋に出会った。

まず、この店はうどんとそばとラーメンを同時に提供している。この時点で「どうせ同じ麺類だろ」という、覚悟にも似た片手間感が絶対的に溢れ出している。

さらに券売機で売ってるセットの名前は「サービスセット」だ。サービスセット。セットの名前を考えるのも面倒くさいという、こだわりのなさを感じて良い。

夜はタイムサービスと称してラーメン一杯320円で提供している。320円。ちょっとでもこだわってるラーメンだったらこの2倍出しても食べられない。つまり、バファリンの半分が優しさでできているのと同じように、ラーメンの半分はこだわりでできていると言えるだろう。

券売機で買ったチケットを渡す。パートのおばちゃんが2人で、別のパートの話をする片手間に麺を茹でてくれる。茹でるのにも大した時間はかからないから並んで待つ。他のこだわってるラーメン屋のように麺を天空から振り下ろして床に飛沫を散らしたりしない。横のシンクで申し訳程度に水を切り、スープにポチャンと落とすだけだ。この様子を見たとき、「そうか、ラーメンって、これでいいのか…」と不思議な感慨に包まれた。

水っぽい白葱。若干パサパサしたチャーシュー。特になんの特徴もないメンマ。いわゆる醤油ラーメンのスープ。そして、なんの変哲もない麺。それらが渾然一体となって見事な「ただのラーメン」を作り上げている。

完食して、僕はつぶやく。

「普通だ…」

ホルスの件

引っ越し祝いに古代エジプトの天空神「ホルス」のまぁまぁ大きめの像が送りつけられて以来ライフワーク的にちびちび続けていたホルス神の改造計画がある程度進んだので引っ越し祝いに大きめのエジプト神像を送りつけられたのでラズパイを仕込んで喋れるようにしたという技術記事にまとめてみたところ、けっこうな勢いでバズった。会社でのあだ名が「ホルス」になりかけている。

2016年の抱負として「毎月何か新しい物を作って出す」というのを決めていた。1月の成果物としてこれを出したものの、11月辺りからチマチマ続けていた。そしてこれがバズってオロオロしてるうちに2月が終わりつつある。言い訳をすると、2月は会社の仕事が忙しくてだいたい0時過ぎに帰っていたので、あまりいろいろはできなかった。言い訳終わり。

奥の手として、1月の成果物はこっちのKindleのハイライトを取得していろいろやるやつということにして、ホルスは2月の成果物とする。だいたいホルスは1月の成果物とは言いながらも11月から作っていたのだから、1月に出した物が2月の成果物になっても大した違いは無い。大人になるとはこういう屁理屈が正当化できるようになるということなのだ。

アウトプットを増やしていこうと思っていたが、ちゃんとした学びのあることを書こうと思った結果、依然としてブログについては月1ペースぐらいになっているし、大した学びもない。どうせそんな誰も見てないので、もっとしょうもないことを書いていきたい。

自分のKindleのハイライト箇所をランダムでつぶやくbotを作ったわけ

正月で実家に帰った瞬間に思いついて、Ruby入門のサイトをみて勉強しながら2日がかりでこういうのを作ってみた。最初だからめちゃくちゃ時間かかった。こういうことにまとまった時間を投資できないとしんどい。

Rubyで自分のKindleのハイライト箇所をランダムでつぶやくbotを作った – Qiita

たぶんコードも糞なんだけど、誰かの役には立つだろうしアドバイスももらえるかもしれんしということで公開。

後輩におすすめ本を紹介しようとして、Kindleのハイライトをまさぐってみると、自分でも忘れてたけどこいつ良いこと言ってんなーみたいなのがぽろぽろ出てくる。

名言botとか、引用集とか切り抜きをありがたがるのはあんまり意味ないなと思ってて、どうしてかというと、ああいう名言みたいなのはその裏に流れてる文脈だったり、本ならその本全体の思想だったり、人の発言なら人となりがあっての名言みたいなところがあるので、知らないのにそこのワンフレーズだけ切り抜いてありがたがっても都合のいい浅い理解や思考停止に繋がりかねない。

一方で、自分は読んだ本を端から忘れていってしまうので、自分が読んだ本のなかでフックになってるところ(グッときたところ)が後になってその本全体を自分の中に長く残すためのインデックスとして機能するんじゃないかというもくろみがある。

あと、自分が読んで線引いたところを同じ本を読んだ別の人が見たら面白いかなっていうのと、他の人がその本に興味持ったら良いなっていう感じで。アフィリエイトのリンクも付けてみたら小遣い稼ぎになんねぇかな。なんねぇか。

 

2016年の抱負

  • それなりに本を読む(60冊)
  • より怪しい方へ足を伸ばす
  • 毎月何か新しいものを作って出す

去年と一昨年はインプットの年だった感じがするので今年はアウトプットの年にしたい。100冊読もうと思ってたけど60冊にした。本を読むのは読むとして、読んだ本を咀嚼して形にするのにちゃんと時間を充てたい。そんで外に遊びに行く代わりに家で作りたいものを作る。作ったものを持って怪しい方へ足を伸ばす。よくわかんないけどそんな感じで。

2015年はどうだったのか

2015年がほぼ終わった。前倒しで終わったことにしよう。今から新年だ。
2015年の目標は

  • より本を読む。
  • より怪しいほうに足を運ぶ
  • より飽きていく。
    • 飯を満腹まで食うのに飽きる。
    • 着るものを毎日選ぶのに飽きる。
    • その他、随時飽きる。

という感じだった。

より本を読む

これに関しては、去年20冊ぐらいしか読んでないのに比べて60冊ぐらい読めたので自分の中ではまぁ読んだほうだと思う。まぁ別に冊数じゃないんだけど、指標として。大学時代よりは少なくとも本を読んでいる。

何をしたかというと、(別に本を読むために、というわけではないけど)引っ越しをしたため通勤時間が徒歩15分から電車で片道1時間に伸びたこと、スマホを解約したことが大きい。特にスマホを解約したのは素晴らしい決断だった。こうなると電車の中でやることが「本を読む」ぐらいしか物理的になくなるのだ。物理は強い。
家が近くて通勤時間が短いと気持ち的なストレスはだいぶ減るが、かといって「その分早起きして本を読むぞ」ということができたかというと、できなかった。そういう生活はHPを使わない代わりにMPを使うのだ。来年は100冊ぐらい読んでおきたい。

より怪しいほうに足を運ぶ

これはできなかった。むしろシェアハウスを出て定住生活を始めて、怪しさがどんどん減っている気がする。まぁ多分2016年はけっこうな変化の年になると思うし、ついでにもっとフラフラ怪しいほうに足を運んでいきたい。

より飽きていく

服はだいぶ飽きた。同じ紺のチノパンと無印の白いオックスフォードシャツをいくつか買って、無課金アバターみたいに毎日毎日同じものを着て暮らしている。服を選ぶという行為をしなくてよくなり、かなり楽になった。持つことから執着が生まれる。執着から迷いが生まれ、迷いから苦しみが生まれる。

こうなると、まだ服に選択肢があった頃「何日も同じ服で行ったら会社の人に同じ服着てるのバレるかな…」とか気にしていていたのが馬鹿らしくなる。毎日違う服を着ているからそういう発想になってしまうのであって、毎日同じ服の人として定着されれば何の問題もない。よく探せば会社にそういう人の一人や二人いるのだ。ドラクエの主人公が日によって装備を変えたりするだろうか。その時点でいちばん強い装備を常に使うのが普通だろう。服も装備と一緒で、気に入ったものとそうでないものが混在するより、毎日気に入った同じものを着るのが一番良い。お金があって必要を感じればオーダーメイドのシャツを1週間分まとめて作ってもらったりするだろうが、今のところ必要を感じていない。

日常服に満足したので、今後は土日に着る用の趣味服に挑戦してみようと思う。日常服が固定していれば、服を買うときにも「これは普段着るにはちょっと厳しいかな…」と妥協することなく振り切ったものを選ぶことができる。着たいときに着れば良いのだから。

ちなみに3足まとめて買った靴は安物過ぎて雨の中を10分歩いたら靴下の中までビショビショになる代物だったので1個を残して捨てた。

飯を満腹まで食うのに飽きる。これは飽きてない。ごはんはいつでもおいしい。

ドキュメンタリー: 洗剤とかのCMで微妙に残る汚れのCGを作る職人

台所用洗剤、歯ブラシ、カーワックス…どのCMにも必ず現れる「汚れが流れ落ちるCGシーンの隅に、僅かに残る汚れ」。
日本人なら誰もが見覚えのあるこの『汚れ』が、国内にわずか数人の職人の手によって作られていることを知るものは少ない。

山梨のある山道の外れ、テレビの電波もほとんど届かない山中。そこに下界の騒がしさを避けるかのようにひっそりと佇む、一軒の木造住宅。テレビCMの制作関係者がそこへ毎週のように足を運ぶ。ここが彼の工房である。

「ノコシの柴崎」
数少ない洗い残し職人である彼は、業界ではそう呼ばれている。「ヨゴシ3日、ナガシ1年、ノコシ10年」と言われるこの世界においてもはや知らぬ人のいないその名は、彼の偉業を物語る。

「どこに汚れを残すか、どれぐらい残すか、どんな形で残すか……そういうことは俺が決めることじゃねぇ。こびり付いてるこの汚れをじっと見てるうちにな、この中に汚れの『魂』が見えてくるんだよ。いや、見えるっつうのはおかしいな……聴こえるんだよ。『俺は流されねぇぞ、ここにこびり付いてるぞ』って、汚れの声がな。俺はそいつを見つけてやって、残してやる。それだけだよ、俺がやってることなんてのは」

そう話しながらも彼は、3DCGソフトウェアを操り、衣類のしつこい油汚れのシミをわずかに、目立ちもせず見逃されもしない絶妙な位置に、残していく。そのマウスカーソルの軌跡には、寸分の淀みもなかった。

生活用品のCM制作に携わる者は誰もが「柴崎のノコシには敵わない」と口を揃える。
熟練の彫刻師が仏像を彫る際には「木の中に本来いる仏を取り出す」というが、それに勝るとも劣らないほどの「神性」のようなものを、彼の残した汚れに感じ取らずにはいられないのだ。

千利休が庭を塵ひとつないほど綺麗に掃いた後で、木を軽くゆすって紅葉を少し散らし、「これで美しくなった」と納得したというエピソードは有名である。また、禅の思想に影響を受けた日本庭園の枯山水が象徴する「無」は、その中に配置された石という「有」があってこそ完成した「無」となりうるという。洗剤によって全てが洗い流されたあとに柴崎の手によって僅かに残されたこの汚れもまた、その洗い上がりの美しさを引き立てる以上の何か、美の本質を感じさせるような気迫をそこに残している。

しかしそんな「ノコシ」の世界にも、ゆっくりと着実に時代の波が迫っている。後継者不足である。

「昔は若ぇ奴がそりゃ勢い良く残しまくりやがって、『これじゃ宣伝になんねぇだろうが!』って叱り飛ばしたもんだけどな……。そういう時代でもねぇんだろうな、寂しいもんだよ。このぶんじゃ、もうじきこの歯と歯の隙間も、味気ねぇツルツルになっちまうんだろうなぁ」

糸ようじのCMのCGシーンを何度も再生しながら、誰にともなくそう呟く柴崎に、スタッフは返す言葉もない。
そんな撮影班の空気を察してか、柴崎はすこし顔を上げ、不器用に笑う。

「それも一つの流れなんじゃねぇかなって、最近は思い始めたんだよ。ようやくな……。どんなに残ったって最後にはみんな流される。それでも流されるために残す、残すために流される。そういうもんなんじゃないかな、人生も。
ただ、俺は最後まで残すよ。流されねぇだけが取り柄みたいなもんだしな、『俺に汚れを残してもらわないとどうしても駄目だ、流れた気がしねぇ』って奴がいるもんだから。それに、今さら俺が流されちまっちゃ、今まで俺が残してきた歯垢やらコーヒーのシミに申し訳が立たねぇだろうが」

取材を終えた帰路、我々を見送りながら柴崎はこう話してくれた。

「まぁ、お前たちもせいぜい頑張りな。なんにしても結局最後まで残ったやつが勝ちだよ。俺はもうこの年だから、今まで簡単に流されていく奴を嫌というほど見てきた。だけど、残らねぇ汚れは汚れじゃねぇ」

残らねぇ汚れは汚れじゃねぇ。柴崎の言葉が我々の心に、孤独に、強くこびり付いていた。まるで洗い流しきれなかった歯垢のように。

都内IT企業勤務、スマホを解約して2週間が経ちました

この本を読んでて、読み終わる前に携帯を解約してしまった。なので今は電話番号を持っていない。前々から「意外となくてもなんとかなるんじゃね?」と思っていたが、この本に出てくる、携帯を水没させて予期せず心の平穏を得たエピソードを読んでいるうちに無意識のうちにソフトバンクショップに足が向き、気がついたときには解約していた。要はほぼ勢いだ。

とはいえスマホを持ち歩かない生活をしているわけではなく、自宅と職場にWi-Fiが飛んでいるのでスマホを普通に使えるし、持ち歩いている。連絡には元からSMSはほとんど使っておらず、FacebookメッセンジャーとかLINEだったので、平日は今までとほとんど変わらない状況である。

このことからもわかるように、解約してからの生活で、意外なほど大きく変わったところはない。が、ささやかなメリットと地味なデメリットを享受してはいるので、それについて書こうと思う。
後述する地味なデメリットの解消のために、メールと緊急用の電話ぐらいは使えるような安いガラケーを近いうちに契約しようと思っている。だが契約するのがめんどくさいのでいつ契約できるのかはわからない。その程度の不便さだ。

■主な動機:SNSを見ている間に人生が終わるという恐怖
僕はいわゆる活字中毒と呼ばれるタイプに属する人間だと思う。おそらくその中でも地位的には下の方で、別に高尚な哲学書とかじゃなくても、雑誌でも広告でも張り紙でもいいし、何も読むものが無かったらレシートとか読んでると思う。読むのが楽であればあるほど良い。この読むのが楽であればあるほど良いというのがよくないところで、Twitterなんかは1000人ほどフォローして更新すればいつどこにいても新しい文章がポロポロ出てくるもんだから、電波の入るところに放っておけば条件反射の実験に使われた哀れな猿のようにスマホの画面をさすり続ける。

このままでは、SNSを見ている間に何事をなすこともなく人生が終わってしまう。そのような恐怖が常にあった。これを避けるために様々な手を尽くした。20人ぐらいの身近な人のリストをつくって、スマホではリストしか見られないように設定できるクライアントアプリを使ってみた。友達に勧められて、Facebookは「友達」を全員片っ端からアンフォローしてみた。(これはけっこう効果や発見があって、これについてはいつか別の形でまとめる)それでもやっぱり根本的な解決には至らず(別に今もそんなに至っていない)、貴重な人生の時間をよくわからないものに蝕まれているような気がしていたのも、解約に至った理由のひとつだ。わからない人には「なんじゃそりゃ」という感じだろうが、これは冒頭に挙げた本の中にも同じような事例があり、強く共感できる。

■ささやかなメリット1:ちょっとした優越感
素直に認めよう。今の時代にあえてスマホを使ってないのは逆にカッコよくね?と思っている。なにしろ電車や駅のホームで周りの人たちを見てみれば、8割方の人間が俯いてスマホをいじっている。それを見ながら「この中で携帯の回線が繋がってないのは俺かホームレスぐらいのもんだろうな…」と思うとちょっとテンションが上がる。別に何か悪いことをしているわけではないのだが、ソフトバンクショップで解約手続きをした瞬間にも何とも言えないカタルシスがあった。あと「俺スマホ解約しちゃったよ~」と言うと、今はまだ物珍しさもあって、新しいスニーカー買ってもらった小学生ぐらいには周りにチヤホヤしてもらえるので、小さな自尊心が満たされる。

■ささやかなメリット2:いままでより少し本を読むようになった
毎日の通勤の往復時間や土日の移動時間はちょっとした本を読むのに適した時間だと思って、常に読む本(kindle)を持ち歩いている。しかし今まではそれよりも手軽なスマホがSNSを見せてくれるので、結局移動中に本を読むことはあまり多くはなかった。あったとしても途切れ途切れにSNSの更新を確認するので結局そんなに集中はできない。
スマホを解約してからは移動中はWi-Fiの電波が入らず、読書ぐらいしかやることがないので当たり前だけど読書がはかどる。

そういえば、スマホを持ち始めてから「○○ぐらいしかやることがない」という状態に持っていくのが極端に難しくなった。集中して読書や作業をしようとしてカフェに入って、なんとなくスマホでSNSを見続けて、電池が切れたところでふと「これで作業に集中できる…」と安心する、みたいな経験がないだろうか。僕は頻繁にあった。

■ささやかなメリット3:電池が保つようになった
スマホの電池というのはLTE通信をしていないだけでだいぶ保つようになる。2年前に買って少々ガタが来はじめた僕のiPhone5は夕方まで電池が保っているということはほぼなく、職場と自宅に充電ケーブルを常備していた上でポータブルバッテリーを持ち歩いていた。
今では平日に職場でちょいちょい使っても、一日ぐらいは保つようになった。(そもそもスマホを使う機会が少なくなったというのもある)

■スマホはオフラインモードでもそこそこ使える
知らないところに行くとき、地図や乗り換えはどうするか。たぶん解約するにあたっての一番の懸念事項はここだと思う。たとえば知らない場所に行くときにGoogle Mapsのアプリがなければ大都会東京で一人ぼっちの俺は一体どうなってしまうのだろうか、と。

結論から言えばこれもそんなに大きな問題じゃなく、ちょっとした工夫で何とかなる。GPSは別にデータ通信がなくても使えるし、Google Mapsのアプリは表示させた地図をある程度キャッシュしてくれているので、どこか初めて行く場所に向かう際、家を出る前に自宅や職場で検索して地図を表示させておけば外でも全く遜色なく表示できる。さらにGoogle Mapsは賢くて、オフライン状態で検索窓をタップすると、最後にルート検索したルートの乗り換え情報を表示してくれる。

ただ、複雑な乗り換えの選択肢がある場合なんかだと、今までは駅構内で電車の乗換案内アプリを開いて「今の時間だとこれが一番早いやつだ」と判断してどれに乗るか決めていたが、そういうことが今は出来ない。出来ないからそんなに困るかというと別にそんなに困ることはなくて、せいぜい5分とか10分の差なのでどれでも行けそうなやつに乗ればいい。どうせ読書の時間がちょっと伸びるだけだ。

あとは友達とどこかに出かけていて出先で急に別の場所に行くことになった場合だけど、今のところの最適解は「そんなもん友達に調べてもらえ」だ。おいしい定食屋でも探してるんだったら食べログもいいけどその辺を歩いてる人に聞いてみるのもいいかもしれない。

■地味に困ったこと:親との連絡、店の予約、身分証明、遅れるときの連絡
携帯がなくて困ることがないわけではない。致命的ではないけど地味に困るタイミングが時々ある。
親はまだ電話とメールの世代なので、息子に携帯を解約されると連絡手段がなくなる。兄弟などを通じてLINEで連絡をとれるとはいえ本人にとっては由々しき事態である。早いとこ電話とメールの繋がる携帯を確保しておく必要がある。
また、職場の飲み会の予約なんかをする際、ネット予約の出来る店も多くなったとはいえ、電話ぐらいしか窓口がなかったりすることもある。月に1回あるかないかなのでそんなに頻繁に使う機会があるわけではない。
それから、何かに申し込んだりする際には大体「電話番号」の欄が必須である。固定電話も持ってないので書くことがない。まぁ大抵の場合は向こうから電話を掛けてくるような用事もないので昔の番号をしれっと書いていてもいいっちゃいいんだろうけど、なにかと面倒だ。
地味に一番困るのは自分が何かしらの都合で待ち合わせに遅れそうなときだ。まぁそもそも遅れるような時間に出発するなよという話なんだけど遅れるものは遅れる。そんなとき相手に遅れることを伝える術がないので、社会人として申し訳なくなる。「まぁどうせ焦っても早くなるわけじゃねぇし、いいや」と思って本を読むという手もある。

というわけで不本意ではあるが、できるだけ安い格安SIMみたいなのとメールと電話しか出来ないようなガラケーを近いうちに契約しようと思っている。最近は月1000円ちょいみたいなのがあるので普通にスマホを契約するのと比べれば大きな節約にはなるだろう。

■まとめ:「試しにやめてみる」って大事
というわけで大都会東京で携帯を解約してみた結果「まぁちょいちょい困るけどそんなに致命的ではない」という感触でした。携帯代払いたくない人、外に出てまでインターネットしてるのをやめてみたい人はおすすめ。1週間後とかに僕が携帯がつながらないのが原因で死んでたらそれはごめん。やめといた方がいいと思う。

インターネットが退屈になったんじゃない、お前がつまらなくなったんだ

今日は家に帰って住人と話しているうちにふと、おもしろフラッシュ倉庫にアクセスする運びとなった。そこには最新版のChromeで見ても昔と何も変わらない水色のテーブルレイアウトが広がっていた。リンク先の大半は404 Not foundか、infoseekのトップページに飛ばされるようになっていたが、一部はまだ生き残っていた。僕らがIoTとかビッグデータとか言ってる間にも棒人間のアニメは繰り返されていたのだ。まさか2015年になって赤い部屋を見ることになるとは思わなかった。小学校のころ、パソコンを持っている友達の家に集まって1つのディスプレイを眺めていたときのあの興奮、あの時代のインターネット特有のグルーヴ感というか、プリミティブな部分に触れることができた気がする。

とはいえ僕はどちらかというとおもしろフラッシュよりもテキストサイトの子だったので、僕をインターネットに魅了させるきっかけになったテキストサイトの世界を、実家の周りでも歩き回るような懐かしい気持ちで見て回った。その多くは跡形もなく消えるか、人影のない遺跡となっていたが、いくつかは未だに毎日更新を続けており、掲示板に読者からの投稿が続いているものもあった。そこには忘れ去られようとしている古き良きインターネットが感じられて心にしみ入ることだなぁ、という感想であった。

当然なんでこんなに面白かったんだろうという話になる。昔のインターネットにあって、今のインターネットにないもの。それは開拓者精神のようなものかもしれないと思う。ブログなんていう便利なものもなかった時代で、インターネットに何かを表現することの敷居も高かった。わざわざ日記を書いて公開するためだけにHTMLタグを紡いでレイアウトを組み、レンタルサーバーを借りて日々更新しているわけだから、彼らは「自分の日常をおもしろおかしく語る」ことにかける異様な熱気があって、そんな人たちの日記が面白くないわけがなかった。

かつての自分にとってインターネットは砂漠の旅のようなものだった。道標もなく、索漠とした景色の中をあてどなく歩き続けた先に、こんこんと湧き出る生命の泉を見つける。面白いサイトを見つけることは自分にとってそのような体験だった。そうして、昨日見つけたサイトが今日更新されてないか確認することから始め、幾多のリンク集をまさに網の目のように辿って、自分の感性を震わせてくれる言葉の泉を探す旅に出ている。そのうち少しずつ、無限に広がるかのような広い砂漠にいくつかのオアシスがマッピングされて、自分の中のインターネットの地図を形作っていく。それが自分の中のインターネットの原体験だった。

自分がアクションを起こさないと面白いものにたどり着くことはできない。そこには常に「問い」があった。検索窓に向かって、世界に問いかけるためには、まず「今自分が何を求めているのか?」を自分に問いかける必要があった。
今となってはそんなことはない。TwitterやFacebookの画面を開けばスクロールするだけでいくらでも面白いものは流れてくる。口を開けて待っているだけでいいのだ。ブラウザを立ち上げ、Twitterにアクセスし、URLをクリックして、開いて、閉じる。その繰り返しだ。そこには冒険はない。本質的な充足感やワクワク感みたいなものは得られない。

でもおじさんそういうの良くないと思うんだ。そういう昔の良さを引き合いに出して、今はこれがないからだめだとか言ってるのがね、そういうのが一番良くないと思う。「インターネットが面白くなくなった」とかね、一体いつからそんなに受け身でインターネットに向き合うようになったのかと。寝っ転がってテレビでも見てるつもりかと。そもそもお前がインターネットだと思っているそれは広大なインターネットのほんの一部でしかないという事実をどれぐらい認識しているのかと。

結局ね、つまんなくなったのは僕ら自身のインターネットに対する姿勢でもあるんですよ。他でもない自分自身がインターネットを面白くしようという気概がなければそんなもん面白がれるはずがないわけで。だから受け身じゃなくて面白いものを探しに行くという姿勢を大事にしようと思ったという話でした。

形のある拠り所

ずいぶん前に一度だけ、とある起業家の方と話すことがあった。彼は常に自室の冷蔵庫の中にプレミアムモルツをフルに詰め込んでいるという。仕事でつらいときも自室でプレモルの詰まった冷蔵庫を見ることで自分に誇りを取り戻せるそうだ。きっと、深夜にくたびれて薄暗い自室に帰ってきては、冷蔵庫の明かりに煌々と照らされるずらりと並んだプレモルの缶を眺めながら「俺はこれを守る、決して手放しはしない」なんて言ってプシュリとプルタブを上げるのだろう。

そんなにビールが好きなわけでもないので欲しいとは思わないが、それぐらいで揺るがない自己肯定感が買えるのならば安いものだろうとも思う。何でこんなことを急に思ったかというとこのあいだ高円寺の画廊で60万の絵を買わされかけたからなんだけど。「初対面の人に60万の絵を買わせる話術」が見られるなかなかない機会だと思ってウンウンと話を聞いていたが、これがなかなか勉強になった。

「60万って言ったら結構高いかなって思われるかもしれないんですけど、お兄さん携帯電話お持ちですよね、月々いくらぐらい支払ってます?まぁだいたい1万円ぐらいですよね、てことは1万かける12ヶ月かける5で、だいたい5年ぐらいしたらそれぐらいの額は払っちゃうんですよ、それでも携帯電話だと5年もしたら時代遅れになっちゃうでしょ、そう考えたら同じ額で一生ですよ、一生この絵のある生活が楽しめるんですからそんなに高くはないと思いません?」

まぁ結局「シェアハウスなんで置くとこないしもうこの絵飽きてきたんでいいです」と断って帰ろうとしたらすごい勢いで渋られて、最終的によくわかんない絵のプリントされたメガネふきとポストカードを1000円で買わされてしまった。(見る度に嫌な気分になるので捨てた)

おそらく価値のある人には価値のあるものなんだろう。何しろ60万円だ。生半可な覚悟で買えるものではない。それに価値を認められるのなら、毎日寝室に掛けた絵を眺めて腕組みをしてうなずいているだけでも幸せになれるのかもしれない。

何だっていいけど、人間何か確かな形のあるものに委ねなければ、自分を保ち続けることは難しいのかもしれない。

自分にとってそれが何なのか。何なんだろ、謎だ。

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